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書聖 副島種臣

 副島種臣(1828~1905)は明治政府の太政官、外務卿など歴任、漢学、洋学など学識は抜群でした。西郷隆盛とは親交ふかく、西郷とともに旧庄内藩士から篤く尊敬されていました。庄内の人たちが西郷南洲からの教えうけたことをまとめ、副島が序文を寄せて「南洲翁遺訓」を庄内で刊行、全国に頒布してまわりました。その序文(下記写真)は、簡潔、明快の名文です。
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(南洲翁遺訓一巻は区々たる小冊子といえども、今の時にあたりて、故大将の威容の厳と声音の洪与(こうと)を観るにたるあるは、ひとり此の篇の存するによる。ああ、西郷兄、何をもって、はやく死せるか。この書を著す者は誰ぞ、庄内賢士大夫某々。明治23年1月 副島種臣)

庄内ではそういうご縁があり、当館はじめ出羽三山神社、丙申堂、新茶屋など各地に副島の書が多くあります。当館御隠殿に副島種臣書「関雎堂(かんしょどう)」の篇額が掲げられています。そして「余(われ)荘内候の邸に於いて「関雎」を講ず。故為に斯の語を書す。副島種臣」とあります。明治24年8月に来庄した副島種臣が、この御隠殿で中国古典「詩経(しきょう)」を講義し、そのなかの関雎を書き、自分の手形を印のかわりにおした書です。以来この部屋を関雎堂といっております。
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(致道博物館蔵「関雎堂」)
 その篇額の横には中根清澄が描いた、酒井忠篤、忠宝、旧庄内藩士25名が副島から講義をうけている図を掲げております。
 
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 ある日、書家でもある黒崎研堂が東京の副島先生を訪ね、書についていろいろと御教示をいただきました。その時、「丕顕」の書を目の前で書いてくれました。たまたま同座していたのが、日下部鳴鶴、巌谷一六という、これまた当時の著名な書家でした。この両人とも口をそろえて、これはすばらしい出来であるとしきりに賞賛しました。研堂は、内心こんな字のどこがよいのか、何でこの二人がほめるのか、先生のご機嫌をとるためにほめているのだろうと内心苦々しく思いながら、しかたなしにその書を頂いて帰りました。家に帰ってから、毎日毎日見ている中にだんだんそのすばらしさがわかり、自分の不明を恥じたといわれています。

「雨」
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「雲」
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「鳥」
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「子」
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 副島の書は、石川九楊が「近代随一の書家」、谷川徹三は「あんなに感服した字はない」と述べ、河東碧梧桐は「日本の書聖」と最上級の讃辞をおくっています。下記は致道博物館所蔵「桃源人家」
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 そして副島の書は、一幅として同じ書風のものがないということ、軸装にしても、篇額にしても、その時の心境によって揮毫されたのではないかと思われます。
下記は流麗な書(「薔薇の香る処」酒井家所蔵)
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「文学界」草森紳一著 薔薇香処ー副島種臣の中国漫遊ーとして長期間(平成11年頃から平成15年頃まで)連載されました。次号完結というその注釈をみながら1年以上なかなか完結しない長期の力作でした。
僕、近頃 貧の病あり。
副島種臣より菅実秀宛書簡(当館所蔵)で
「僕、近頃、貧の病あり。富田氏好意、救済の道を先生に謀れと云えり。呵呵。若し先生の才の能のはたらきを以て富田氏と御同謀を賜わらば幸甚、敢えて望むところに非ざるなり。」
 明治末、副島先生が友人の連帯保証をして困窮され、お手紙をいただきました。庄内では南洲翁遺訓の簡潔明快な序文をいただいたり、道義をむすんだ先生ということで報いる努力をしました。
私も、「貧の病」はいつもかかっている病気?ですね(-_-;)
慢性化してなおりそうもありません(^o^)。

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by ChidoMuseum | 2011-06-09 23:38 | Comments(0)