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粥座神社と甘藷の神・田中翁

 毎年10月7日酒田市浜中 石船神社において酒井忠器之命を祀る粥座並びに甘藷の神とたたえる田中與平翁の報恩感謝祭催のご案内をいただきました。あいにく会合が重なり参列できませんでした。
天保の大飢饉(出羽の国を大雨、洪水と、それに伴う冷夏の時に、我が浜中の先祖を飢饉よりお救いくださいました酒井忠器様を祭る粥座神社と、飢饉を免れるため、不毛の砂丘地のこの里に芋作りを広めてくださいました田中宮門様を祭る石碑の前で、先祖よりの習わしとして仕えてきました報恩感謝の祭典とありました。
 天保4年天変地異が集中、最上川一帯の大洪水、7月からは寒波、刈り入れ前の田が雪に埋もれ、荘内藩では荒備米を出し、米安売座を開き、買えない民には2合ずつ施米しました。10月末には気温上昇、夏の暑さになり10月26日午後4時大地震発生、海岸通りには津波が及びました。藩では食料確保のため領外輸出を禁じ、粥、雑炊を奨励、配給制度(合積)や翌5年松前から鰊108844本や鮭塩引800本取り寄せ農民に支給するなど藩では最大限努力、浜中では配給された米で粥座をもうけ村民を救ったことから粥座明神のお祭りがされています。荘内は藩政の適切な処置と湊酒田商人などの活躍によって餓死者をださずに天保の大飢饉を乗り切ることができました。
 田中與平は寛政10(1843)年の生まれで、庄内藩に仕え、天保14(1843)年十五人扶持を給され勝手支配役となっています。その後、松山藩郡代に転じ新知100石給与、その後普請方、さらに嘉永5(1853)年漆木植付役を命じられました。安政年間、與平は江戸藩邸から庄内に下る途中、越後で甘藷の栽培を目にして農民に尋ねたら、砂丘地や痩(やせ)地にも育ち、凶作時の非常食にも良いというので種いもを分けてもらい帰りました。與平は帰国すると早速気候風土の似通った最上川南岸の浜中(現・酒田市)を選び、甘藷植え付けを家老に上申しましたが、その識に乏しく、賛同を得ることができませんでした。與平はことあるごとに救荒作物としての甘藷の効果を力説、ついに家老も植え付けの許可を与えました。
 この粥座のご神体は鍋ときいています。浜中地区住民のこのように顕彰し昔のことを今に伝える厚い心に感銘をうけました。
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by ChidoMuseum | 2011-10-08 00:48 | あれこれメディア情報 | Comments(0)