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忠篤ドイツからの手紙

戊辰の役後、明治3年(1870)酒井忠篤は藩士70余名と共に鹿児島に往き、西郷隆盛のもとで兵学を修業したが、この時の忠篤の真剣な態度に敬服した西郷はドイツに留学するをすすめ、また菅実秀も「回国はもちろん、異国にも渡り形勢を見ることが肝要」という勧めによってドイツ留学となった。(中略)
ドイツへ留学した酒井忠篤の明治7年6月9日附の書状。
 この書状を見ると、鶴岡1月28日に差し出した手紙が6月初にドイツに届いている。前述の松ヶ岡開墾につき朝廷より御下賜金のあったことの知らせを聞き、「若き者共いよいよ開拓盛んにて昨年中も六十数坪余の場所残らず開墾致し、今度は朝廷より一同へお金下され候旨、一同の骨折り感心致し候、全くは其方始めの骨折によるの次第と実に大悦に過ぎず候。」と述べ「此の上も何分にも宜しき様相頼み候」と万事を心置きなくまかせ自身は安心して勉学出来るという事が言外にうかがわれる。
 次に当時のドイツの近況を述べている。
「実に当地にても兵事は中々盛んなると雖も其外は皆々よきものには之無く、実に西洋人とても四目両口有るにあらず、馬鹿は矢張り馬鹿に候。」と批判しながらも
「この節に相成り候ては万事なかなか面白く相成り西洋人にも知識の者も出来、大楽しみに候」と知識人との交わりの出来たことを喜んでいる。
 又、この書状には、ドイツの二万の大軍による大演習を観戦し、その規模の大きいことに驚くと共に、日本も早くこのような国勢になることを願うとも述べている。
 四通の書状に必ず書いてあることは、松ヶ岡開墾に従事している「若き者」に対する激励と、一日も早く目的の兵学の修業を達成し、日本の為、万分の一にも相成り度いと日夜心掛け勉学に励んでいるということである。
 以上酒井忠篤 ドイツ便り からと題して、館報に掲載したことがありました。
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整理のため、もう1度読み直し、
「実に西洋人とても四目両口有るにあらず、馬鹿はやはり馬鹿に候」
 当時西洋文化に驚き、西洋人はすごいと思ったことであろうが、よく観察すると、すべてがそうでなく馬鹿はやはり馬鹿といっているところが興味深い。
「四目両口有るにあらず、ただ智多きのみ」
 これは敵将との会談に臨むときに噂に聞く曹操を一目見ようと多くの敵の兵隊に取り囲まれたときの曹操の言葉。自分は目が4つあるわけでも無く、口が2つあるわけでもない、自分はただ学んできた智が多いだけという曹操晩年の言葉。それにひっかけたのですね。
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by ChidoMuseum | 2012-10-06 00:37 | あれこれメディア情報 | Comments(0)