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吉田苞竹顕彰碑

 中央書道界で活躍し多くの優れた書家を育てた書家吉田苞竹の顕彰碑が東京の書壇院から寄贈移設され、10月16日午後2時、榎本鶴岡市長、書壇院理事長はじめ関係者多数出席のもとその除幕式が鶴岡公園でおこなわれました。これを機に書家吉田苞竹の顕彰とその志である書道がますますさかんになりますように。
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 吉田苞竹は明治23年12月鶴岡市に生まれ茂松と名付けられました。13歳で書家として有名な黒崎研堂の門に入り漢籍・書道を学ぶ。明治44年山形師範学校を卒業、教職につく。
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(写真:吉田苞竹)
 「私の苞竹という号は、私の郷里鶴岡で、儒者として又書家として有名だった黒崎研堂翁からつけていただいたのです。これは私の名が茂松であるのに対して大変面白いと思っています。それは詩経に、ー略ー如竹苞矣。如松茂矣。とあるのに拠ったのです。」(朝日新聞昭和14年11月21日付)
大正3年8月、書家比田井天来が鶴岡に来遊、苞竹は天来を訪ねました。
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(写真:黒崎研堂)
 「比田井先生は私の苦心して書いたものを一瞥しただけで、くるくると巻いてしまい、綺麗に達者には書いているがまだまだこれではいかぬ。ひとつ僕の書く汚い字を見たまえというようなわけで、筆を執ってなるほど一見汚い字を書いてみせてくださる。そして光明皇后の御書樂毅論を示されて之をよいと思うかどうかとか、歐陽詢や鄭道昭や孫過庭書譜や十七帖やいろいろな碑板法帖をだしてはいろいろなことを話されました。私は狭い道から突然曠野にでたようで何が何だかさっぱり見当がつきませんでした。けれども狭い道をば照らさなかった太陽が、一時にぱっとあらわれたような感じがしました。そしてある力強い何物かを得たことを否定することはできませんでした。(「碑帖大観」昭和2年5月号所載」
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(写真:日下部鳴鶴)
大正4年、研堂と天来の紹介により日下部鳴鶴に入門しましす。大正8年書道の研究に専心する志を立てて上京し、書道研究会を設立(後の書壇院)します。大正13年「碑帖大観」第1輯第1巻を刊行します。大正15年加藤高明首相の墓誌を揮毫、書道研究会主催全国書道展覧会を開催します。これが後の書壇院展の第1回にあたります。その後、制作、著作、講習、講演、碑法帖古硯の収集等々の活動を続け、また同志とともに戊辰書道会、泰東書道院、東方書道会の設立に参画するなど、まさに東奔西走の日々をおくります。昭和15年4月東京税務監督局で書道科講師として講演中たおれ、享年49歳。
苞竹が創設した書道研究会は昭和18年財団法人書壇院として設立され、平成24年公益財団法人書壇院となります。
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(写真:東京タワーを遠望して夜間の移設作業)
昭和63年頃から吉田苞竹旧居、同記念館、書壇院本部がある東京都港区麻布台地区などは都市再開発区域となり、港区虎ノ門に転居、苦慮した「苞竹吉田先生の碑」の移設、苞竹と菁菁夫人生誕の地、鶴岡に設置されることになりました。(「書壇院のあゆみ」より一部抜粋)
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by ChidoMuseum | 2012-10-16 20:11 | あれこれメディア情報 | Comments(1)
Commented by moncler paris s at 2013-11-14 17:07 x
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