致道ブログ

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桑園開拓祭り

 庄内柿振興協議会(清和勝会長)では庄内柿北海道出荷100周年を記念して、北海道道民とのつながりを深めるため、山形県人会との交流、桑園開拓祭りへ参加することを企画、8月24日から8月25日にかけてJA全農山形黒井副会長はじめ、庄内柿振興協議会会長、副会長、JA全農山形、JA庄内たがわ、JA庄内みどり、JA庄内みどり柿部会の方々とともに34名が北海道・札幌へ行ってきました。庄内からはマイクロバスで仙台空港へ、仙台空港から一路札幌千歳空港まで飛びました。(他の1班はフェリーで)
 仙台空港で1時間出発が延びましたが、県人会との交流の会場札幌パークホテルには予定時間ぎりぎりにつくことができました。魚住昌也札幌山形県人会会長佐藤豊同名誉会長はじめ各地の山形県人会のみなさまとの交流会は出羽人形芝居のアトラクションがおこなわれたり、終始なごやかに懇談盛会裡に終了。県人会の多くの方々は翌日の桑園開拓祭りにも参加されました。夜せっかくなので、ラーメン横丁にいって札幌気分を味わいました。
 翌25日11時から桑園開拓祭りは、桑園地区連合町内会の主催で道知事公館内桑園碑前で開催されました。この桑園地区だけで人口は2万人以上とか、大勢地元の方方が参列されました。開会の辞を大平節子司会、主催者挨拶山内睦夫桑園地区連合町内会長、桑園碑陰文朗読(暗誦でした)を札幌市立桑園小学校6年代表者6名が行いました。(下記写真)先人たちの社会や地域に貢献しようという思いが次代につたえられていくことは素晴らしいことと思います。
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来賓や桑園地区連合町内会代表の方達などの献花、祝辞として渡辺秀光北海道知事室秘書課主幹、岸光右札幌中央区長、魚住昌也札幌山形県人会会長、酒井忠久致道博物館代表理事(先人たちの開墾が顕彰伝えられていることに心から感謝申し上げました。)、松村聡札幌市立桑園小学校長の祝辞、献杯を長内直也桑園地区連合町内会顧問、閉会の辞を金内芳雄桑園地区連合町内会副会長が述べ閉会となりました。 終わってからいきなりスコールが、後片付けは大変だったと思います。この頃札幌の天候は不順で24日も天気なのに雨雲が現れたとたんすごいスコールだったそうで。本日、北海道マラソンが1万5千人参加しておこなわれており、この雨で大丈夫だったでしょうか。
桑園開拓祭り
 明治8年(1875)北海道開拓使は、屯田兵に養蚕を勧めるため、現在の札幌市桑園地区に桑畑を作ることを決めました。黒田清隆長官の要請を受けた庄内藩の元侍156名が明治8年5月末に酒田港から出発。その頃の桑園は大木も生い茂る荒れ野や湿地が広がり、開墾は大変な苦労が伴いました。松ヶ岡開墾で培ったやり方や月明かりをもとに夜遅くまで働くなど並々ならぬ努力で、6月4日から9月15日までの100日余りに21万坪も開墾しました。この功績を後世に残そうと、明治45年「桑園碑」という石碑が建立されましたが、いつの間にか碑題が「桑園碑」から「国富在農」に変えられてしまいました。これを残念に思っていた桑園振興会の人々が元通りに直した「桑園碑」を再建し、昭和41年5月28日(元庄内藩士団が酒田港を出港した日)に除幕式を盛大に行いました。平成元年からは、この碑の前で「桑園開拓祭」が開かれ、桑園小学校6年生の代表が陰文(碑の裏に書かれている碑文)を朗読しています。」(札幌市・桑園 HPより抜粋)
桑園碑陰文
 地を拓き農を勧めるは産業の本源にして一国の富強の要務実に此に存す。大政維新の初め北海道に開拓使を置かるるや長官黒田清隆君諸僚と謀り大いに力を地益の開発に尽くす。明治8年旧鶴岡藩士族156人を徴募し札幌に移して荒蕪の原野を開墾せしむ。諸士奮勉経書を懐にし、帯刀を樹枝に懸けて鍬鋤を把り6月4日より9月15日に至るの間札幌本庁以西21万余坪を開き桑苗4万株を植ゆ。是れ即ち桑園なり。官其の功を偉とし宴を設けて諸士の労を慰らふ。蓋し兵農相依て辺彊を護るの実を能く顕彰せるものなり。数年の後官桑園を農蚕特志の人に分譲せんと欲す。嘗て森源三君職を開拓使に奉じ専ら教育勧業の事に任ぜしが此の時恰も官を罷め自ら農蚕を起こして大いに国本を確立するの志あり。因て桑園事務所跡地を購いて居宅を設け以て農事に従ふ。庭前に一大標木の桑園開拓の由来を記すものありしも既に腐朽して隻影を留めず。今や嗣子宏君事蹟の年を逐して煙滅せんことを憂ひ隣保有志の賛成を得て桑園の来由を碑石に録し永く後昆に伝へんとす。
明治45年1月 看雨学人 村田峯次郎撰 壺川  林文次郎書  鈴木藤次郎刻
桑園碑には由緒ある開拓者の歴史が刻まれていた。いつの日か碑文は国富在農に改刻されて現在東門にある。先人の辛酸を道民とともに偲びたい念願から桑園振興会有志相謀りここに碑を復元する。昭和40年12月」
庄内柿(北限の柿)の歴史
 明治18年鶴岡市鳥居町に住む鈴木重光氏が庄内柿の起源となる種が無く、扁平の実をつけた原木を発見。養蚕や製糸、果樹栽培など先見の明で産業発展につとめた酒井調良氏へ相談、助言のもと苗木の育成を始める。その後調良氏は庄内各地へこの柿の果樹園をひろげました。調良氏は明治42年「平核無柿」と名付け、渋柿をアルコールによる脱渋方法で確実に渋抜きする技術を完成させ、遠方への輸送も可能になったことから、大正3年に初めて札幌の知人へ向けて輸送、その後の普及に繋げました。」
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by ChidoMuseum | 2013-08-26 10:35 | あれこれメディア情報 | Comments(0)