荘照居成祭催行

 10月2日午前10時から遊佐町 鳥海山大物忌神社蕨ヶ岡口の宮神社で催行されました。当時幕命を覆す英断をした矢部駿河守を祀ったお祭り、名前ははばかって荘内を照らすの意で荘照居成として先人を顕彰しその心を未来に紡いでいこうと毎年おこなわれています。
 寛政1年(1789)矢部駿河守定謙は幕臣町奉行堺町奉行矢部定令の長男として泉州堺に生まれる。
 天保2年(1831)堺町奉行となる。
 天保4年(1833)大阪町奉行となる。
 天保7年(1836)勘定奉行となる。
 天保9年(1838)西丸留守居役となる。将軍の忌に触れ左遷さる。
 天保11年(1840)小普請組支配となる。
 天保12年(1841)4月江戸町奉行となる。
 佐藤藤佐翁(遊佐町出身)白州での取り調べにおいて弁舌さわやかに三方お国替えの非をとうとう話す。矢部駿河守その訴えの誠実さに感激し、その口述書をとり閣議の席で朗読し、藤佐翁の取り調べを停止、水野越前守に3日間登城を遠慮させ、その間老中堀田備中守正睦(佐倉藩主)は転封の利害を審議、
 天保12年(1841)7月12日「上の思召」がでて、酒井家をして元からの領地(本領安堵)と確認される。転封阻止の知らせを御使番興津彌傳次がもってくる。
 天保13年(1842)矢部駿河守、伊勢桑名藩松平家に幽閉、閑居中断食して死去54歳。
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 天保14年(1843)藤佐翁・白崎五右衛門と相談して、刀工・水心子秀世に2振りの刀を作らせる。1振りは矢部駿河守の御神体として白鞘に蔵し、もう1振りは転封阻止運動中の御祈祷の御礼に横刀作の美装して大物忌神社に奉納を計画し、矢部駿河守を祀る神社建築と刀の奉納を藩に願い出るが許されなかった。
 弘化2年(1845)矢部駿河守の無実と判明する。
 弘化3年(1846)地区民の力で大物忌神社蕨岡口の宮境内に荘照居成神社を建築する。社殿の彫刻は上寺の人「西の坊」の作、藤佐翁は、矢部駿河守を「正1位居成大明神」とし、御神体を富士・永代として、白鞘の1振りの刀を祀るもう1振りは横刀作の美装した刀を、出羽一の宮大物忌神社蕨岡口の宮に奉納する。
 嘉永1年(1848)藤佐翁没する。74歳 その長子佐藤泰然は順天堂(医学校)を創始する。
 嘉永3年(1850)矢部駿河守、江戸深川浄心寺に葬られる。
 
by ChidoMuseum | 2013-10-02 17:41 | あれこれメディア情報