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長篠合戦の旗、合戦絵図

「国宝太刀信房作と国宝太刀銘真光」展には、長篠合戦絵図(陣立図)、瓢箪抜忍轡や長篠合戦使用旗なども展示されています。
長篠合戦は武田勝頼と織田信長との戦いです。
奥平貞能、信晶父子は武田に属していたが、天正元年6月武田に背き、徳川に降りました。
家康は奥平父子に長篠城を守らせましたが、武田は奥平の謀反を憤り、激しくせめたてました。
家康は信長の加勢とともに武田と対峙します。
5月20日夜信長の本陣極楽寺山に家康はじめ柴田勝家、佐久間信盛など諸将残らず集まり、軍評定がおこなわれました。家康は「我が家人酒井忠次を召し了見をお尋ねください」と述べ、信長「尤なり」と直ちに忠次を呼び尋ねました。忠次は「勝頼、有海原へ打ちいでた上は、歩兵をもって大野川を上り、鳶巣山における勝頼が附城の留守を乗っ取るにおいては、長篠城の兵は勢いを得て、勝頼の士卒は戦気を失うことになるでしょう」。これはあらかじめ家康が忠次の意見を聞いてそれを信長の面前で披露させたことでした。
しかし、それを聞くと、信長は、呵々と打ち笑い、「いかに酒井、さような忍び取り、かまり(忍びの斥候)の業はその方が参州で百騎2百騎の競り合いになすことである。武田との合戦においては、そのような小策は存じよらない事である、酒井が三河にての軍の勝手をだしたことである」と大勢の面前で嘲笑したので、さすがの忠次も赤面してその場から退ぞきました。
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軍評定が終わってから、信長は家康を招き、忠次を呼ばせました。「さすが家康の片腕と頼まるるは尤もなり。諸人列座ゆえ、はばかっての態、夜討ちは敵が知ってはならないものなり」と信長は忠次にのべました。そして「忠次、その方が先手つかまつるべし」と命じ、「今夜は信長自ら向かいたいものを、あたら手柄を忠次からとられたり」と信長は戯れてのべ、検使として金森長近、青山新七郎、佐藤方秀、加藤市左衛門など、鉄砲500挺を添えて遣わしました。この時当座の褒美として信長は秘蔵の瓢箪抜忍轡を手ずから与えたといわれています(岩淵夜話・織田軍記・四戦記・本朝三国志)。忠次は家次とともに、家康からも加勢が遣わされ、その勢合わせて3千騎、5月20日の戌の刻に出発しました。忠次の鳶巣山奇襲作戦により長篠合戦に勝利に導きました。
その後、家康の命をうけて酒井忠次と奥平信晶が岐阜に行った時信長が厚く接待し「長篠の全勝は信晶が武略をもって猛敵を防ぎ堅固の籠城を続けたると忠次が鳶巣山夜討の計略に因ってなり」と、信晶と忠次に品が授けられました。その時の一つが織田家の家紋がはいった革陣羽織といわれております(武徳編年集成)。
この時の長篠合戦の陣立図や旗、その当座の褒美として信長から拝領した瓢箪抜忍轡、革陣羽織などが展示されております。
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by ChidoMuseum | 2014-06-19 18:32 | 博物館のとっておき | Comments(1)
Commented by 玉白 at 2014-06-20 23:33 x
忠次公と信長公との間で交わされた、面白い秘話をありがとう御座います
今回の刀剣展つつしんで拝見いたしました
結構な業物に魅了されて来ました
―在りし折り、忠明さんとたまたま同席いたし、それぞれ同じ方向に向かい、見事な刀剣に見入った静かな夕暮れ刻が、懐かしく思い出されました