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「歴史の扉」展 2月26日から3月30日まで  


 「歴史の扉」展を2月26日より3月30日まで開催いたします。
その中に藩士知行高ならびに姓名竹札があります。
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それらは第9代酒井忠徳直筆の竹札とつたえられています。
「存耳禄」には、酒井忠徳は、常に慰みに、竹を削り、幅5、6分、長さ4寸ばかりの小札をいくつとなく作り置かれて、表には藩士の姓名を、裏には何年何月何日申付と書して」と記録があります(下記写真)。藩校致道館創設して文武両道の忠徳公、藩士全員を理解しようとしたもの?

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(存耳禄より)公 常々御慰みに幅6 7分に長4寸計(ばか)りの竹を奇麗に削り藩士の姓名を御自ら書せ玉(たま)い 何年何月何日何役申付くるとして夫(それ)を禄の卑き箱に双置玉えるを其此御床の間に置かれしと云う 廃藩の此迄御数奇屋に残り有りしとぞ


参勤交代について

藩主は参勤交代の制度によって毎年領国と江戸を往復しなければなりませんでした。庄内藩は上りや下りには、10~15日を要し、参勤のルートは鶴ヶ岡城を出発し、清川から船で清水に上陸、その後羽州街道、七ヶ宿街道を通って桑折から奥州街道で江戸まで上り、約120里(480キロメートル)の道程を進みました。参勤のルート変更は幕府の許可を得る必要があり、基本的には同じルートをとりましたが、正徳7年(1713)~宝暦4年(1752)の間は尾花沢ではなく、大石田を通る時期もありました。その様子がわかる江戸道中絵図を展示しています。

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酒井の太鼓

三方ヶ原の戦いにおいて、遠州浜松城の留守居役 酒井忠次は、祝儀酒に大酔い、城門も故意に八文字に開け城内の士気旺盛を誇示しました。暮れ6つとなると坊主が常の如く太鼓櫓に上ったが敵の大群を見て戦慄、櫓より駆け下り、忠次が櫓に登り鼕鼕と太鼓を打ち鳴らします。それをみて敵将馬場美濃守信春は城中に策略あらんと察して囲みを解いて退却しました。・・・・新歌舞伎18番の1つ。私も歌舞伎座で公演を見たことがあります。
(下写真「浜松城籠城の図」錦絵 忠次が櫓で太鼓を打っている図 当館蔵)

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「酒井の太鼓」歌舞伎18番

太鼓の話は酒井忠次の智勇にちなんで河竹黙阿弥の創作といわれています。
しかし夕刻退却戦の時、退却兵をうけいれるには、暗いので明かりが必要、太鼓で場所を知らせ、いつでも収容できるよう門は開けておくことはあったのではないか、全くの創作だけではないだろうともいわれています。三河後風土記によると、落ち着きを見せていたのは家康公のみ、忠次は八方に策をめぐらし甲州勢を追い払おうと奔走していたといわれ、諸説あります。


[児童の士気を高めた酒井の太鼓(静岡県磐田市見付学校)]
見付学校が新築落成した年、家康の窮地を救ったといわれる「酒井之太鼓」が、見付学校に寄贈されました。明治7(1874)年浜松の祭りを見物していた見付の花屋吉三郎らが、板屋町の屋台で使っている太鼓が浜松城の警鼓であったことを知り、板屋町から買い受けました。太鼓は吉三郎らがどこに置くかと協議していたとき、ちょうど見付学校が建築中であったことから当寺の見付の戸長・古澤修らと交渉して、翌年開校を記念してこの学校に置くことになりました。
太鼓は最上階に据え付けられ、児童の登校の合図と正午の時報として、また児童の士気を高めるために毎日打ち鳴らされ、見付の人たちの生活の音として親しまれていました。(看板資料より)
「伝酒井の太鼓」は、平成17年11月21日静岡県磐田市の有形文化財の指定をうけました。

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当館では「伝酒井の太鼓」の展示はしておりませんが、ご参考まで。








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by ChidoMuseum | 2016-02-25 22:59 | 博物館のとっておき | Comments(0)