致道ブログ

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「おまえ べんきょうしているか」

 別冊文芸春秋199号に寄稿した小文を書き改め、当館平成255月~6月に開催した「画家93歳 三井永一の軌跡」展発行した図録掲載したものです。生前三井先生より挿絵等が当館に寄贈されましたが、「想像と創造 三井永一の仕事」という三井永一遺作展開催にあたって三井永一先生を偲び再掲します。
「おまえ べんきょうしているか」                                    三井永一

それは昭和11年頃に遡る。当時の少年達はみな大志を抱いていたかもしれないが、私は小志も持たずにウロウロしていたのを、美術の地主悌助先生(当時鶴岡中学、通称フグ。後に地主先生は、石や紙など描いて、小林秀雄や白洲正子など著名人のファンを持つ画家となる)が、上野の美校(芸大)を受けてみては、という。それまで本格的木炭デッサンなど描いたこともなかったのに、美校の試験はこのデッサンが主眼といってもいい。急遽上京して川端画学校に入る。だが、そこには予備校特有の、目は血走り髭顔に年期の入った男達が他人はみな蹴落としてしまえと睥睨しているような雰囲気に満ちていた。堪りかねて、とにかく東京中を探し回った末、内幸町のビルの4階に(ここは後に文芸春秋社が入るのだが)春陽会洋画研究所の看板を見つけてドアを開ける。

 そこには半裸のモデルと抱き合ってポータブル蓄音機でタンゴを踊っている男、絵筆を右手に口三味線で長唄を歌っている女、隅で楽譜をのぞきこんでバイオリンを弾いている人、スチームの上でフランス語の詩を朗読している若者、かと思うと窓辺で双眼鏡をのぞいている男が「オイ見ろ、いい女、いい女」といっている。こんなとき私は躊躇しない。すぐに入所した。そうこうしているうちに美校にはいる気は全くなくなっていた。

 この研究所では、石井鶴三、中川一政、木村荘八、鳥海青児その他の先生が交代であらわれる。木村先生は昭和12年当時朝日新聞に永井荷風「濹東綺譚」の挿絵を描いていた。研究所の先輩はその挿絵の玉ノ井地図を切り抜いて出かけたりしたが、お前はまだ子どもだといって連れて行ってはくれなかった。

 その木村先生は昼夜転倒の人だから夕方研究所にやってきては残っている56人の生徒を引き連れて銀座のモナミやエスキーモ、カフェ・プランタンなどに行く。こんな時の先生の雑談は実技のほか、例えば歌舞伎の平面背景に対するタテヨコの演技と、西洋の半円ホリゾントに対する自然な立体的な動きの違いをリアリズムに置き換えてみると面白い、というような何気なく自ずから身体に染みこむような話しだった。

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 家では、美校にいかないことを詰られて切羽詰まっていた。これを乗り切るためにもここで春陽展に入選するしかない背水の陣だったが翌年18歳で初入選し、その翌年は文展に初入選したからよかったものの、大げさにいえばこの時が私の人生の岐路といえなくもない。やれば出来るということで逆に元来の不勉強を自分に都合良く合点させたのだろう。このことを木村先生はちゃんと見抜いていて後後まで顔を合わせれば「おまえ べんきょうしているか」とのぞき込んできた。

 初めての入選者懇談会でそれぞれ自己紹介するとき、中川一政が立ち「私は木村荘八であります」その隣の木村荘八は「私が中川一政であります」と言って席に着いた。その次の石井鶴三は「私はもともとから石井鶴三であります」と言った。小杉放庵はゆっくり立ち上がって「私は名前を忘れてきました」若い私は春陽会の大先達の親昵を目の前にして身体が震えたつような思いをした。

 さて世の中に、やがてきな臭い風が吹き出し暗雲が漂いはじめた頃、20年近く住んでいたフランスから岡鹿之助さんが引き揚げてきて春陽会に入る。まもなく戦争は若者を戦場に駆り立て、私も招集されて兵隊となり、運命の分かれ道に何度か向き合いながらも東京に戻った。生還はしたが、空虚の中で気力もなく悶々としているとき、岡さんに葉っぱ一枚をじっと観察しながら筆で辿れば落ち着きますと言われ、木村先生にはアトリエに入るなり、書きかけの絵を前にして、君この絵を批評してくれ、と言われた時の衝撃がやがて美術への眼を取り戻した。

 当時木村先生のお宅に春陽会の事務所があった。私は春陽会の事務を手伝うことになり、頻繁に先生の家に出入りし、時には泊まったりする。そんな時は本棚の整理を頼まれたり、時には日本画の仕事をしながらその技法を実地に教えてくれたり、或いは挿絵の仕事の時は作画のコツ、紙の効用、ぺんの描法など、文字通り手を取って教えてくれた。また岡さんは春陽会の研究会や雑報の担当で自然と逢うことが多くなった。ここではアトリエが音楽堂といってもいいようなステレオ装置で、その中で貴重なレコードを深夜まで聴かせてくれたり食事を頂いたりした。

 そうした或る日、木村先生の紹介といって小説雑誌の女性編集者が訪ねてきて挿絵をたのまれた。又別の日、別の月刊誌からは岡さんに紹介されたといってカットの依頼だった。そして、やはり岡さんからの紹介だという文芸誌のカットも描くことになる。木村先生も岡さんも私の暮らしのことを考えて黙って出版社の仕事を紹介してくれたのである。
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by ChidoMuseum | 2017-04-06 17:48 | 展覧会 | Comments(0)