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特別展「茶の湯」於東京国立博物館 に当館所蔵重要文化財「潮音堂」を出品

4月11日から6月4日まで、東京国立博物館で特別展「茶の湯」展が開催中です。特別協力として表千家、裏千家、武者小路千家、藪内、遠州茶道、江戸千家、大日本茶道学会、茶道宗徧流が各流派が特別協力して、お茶に興味ある方には必見の展覧会、是非ご覧ください。当館所蔵の重要文化財「潮音堂」が出品されております。
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その由来については・・・・・・・・

聖一國師  圓爾弁圓  駿河国安倍川上流出身が、鎌倉幕府貞永式目制定、北條泰時全盛時代のとき、諸方参学の後、嘉禎元年(1235)宋に渡って法を求める。

聖一國師が宋で、諸国を遍歴していた。当時天下第一の宗師は径山にいる無準師範和尚としり、直ちに無準を尋ねる。

無準は聖一國師の器量を買い、直ちに入室をゆるした。

滞留六年無準の下で研学、七年目仁治二年、師自ら日本帰国をすすめ、「早く本国に帰って祖道を提唱せよ」との言葉に博多に帰った。当時、日宋貿易をやっていた宋人の謝國明が大旦那になり、博多に承天寺を創立することとなった。

帰国早々承天寺開創を聞いた師の無準は喜びの御祝いとして承天寺の寺額や寺役を示す牌字を自ら書いて贈られた。新寺の模様や大きさが分からないため、大小沢山書いた。ところが九州の天台宗徒に非常な打撃を与えたため、聖一國師の声望をねたみ創立まもなくにも関わらず焼き討ちを掛けられた。そこでやむなく招かれるまま京都に移り大相國九條道家保護により東山に東福寺を経営することになった。

先の師の無準より書いてもらった額字は幸いに承天寺の火事から難を逃れた。そして國師が宋朝より持ち帰った幾多の法文学書と共に東福寺内の普門院に納められた。それらの額字の中にこの潮音堂の三字があった。そして小堀お家元のところに添状二通あり、それによると東福寺の伽藍修理の為に寛永八年二月四日に黄金二百枚を以て「潮音堂」の幅を淀屋三郎右衞門に売渡し、その証明に東福寺の寺役たる東堂西堂の坊主が署名をしている。

なお一通には表具の寸法圓取が書いてあって、それは今日のものとは表層裂が違っているから、遠州が何かの因縁で此の幅を淀屋から譲られて後、今の表具に仕立て替えたとみえる。当時の位地および数奇の模様から察せられる。(田山方南氏当館館報)

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その後、小堀遠州家より酒井に渡った伝説があります。荘内の百科事典といわれる大泉叢誌には次のように記されています。

潮音堂御掛物由来ーーーー坂尾万年編大泉叢誌

潮音堂の御掛物は、故小堀政(遠江守)金山寺より出しを、七百両に求められ、忠勝公は政一の茶の御弟子なりしが、或時、殿中にて遠州申されけるは、珍しき掛物手に入りしまま、一服進じたき由にて日限約諾これあり、忠勝公入らせられしに、彼潮音堂を床にかけ置きぬ。甚だ御称美あって其の値を議せられけるに、政一笑って一字千金と申されとなり。

其の日はそれにて済み、後日に又殿中にて忠勝公政一へ仰せけるは、先日の潮音堂何卒今一度たきとて、又日限を約せられ、其の日に至り入らせられ候て、中立の砌 彼の掛物をとりたまいて、早乗りにて帰らせられ、遠州出迎え講じ入られんとせられしに、公おわせざりしかば、不審してそここことたづね奉るうちに、公より御使者をもって掛物の礼をのべ代三千両出しければ、遠州もさほどまで望ませられんにはとて、その意にまかせられしとなり。依りて小堀和泉守潮音堂掛物箱ばかりあり。その後右三文字を能書にうつさせ印も朱をもって書きし、掛物小堀候にありとなり。


その後、平成10年初夏に小堀宗慶お家元に箱書きをしていただきました。




なお、鶴岡の木村屋で最高の原材料を使った「潮音堂」のお菓子があります。
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なお、伝説口伝には他にいろいろな説があること申し添えます。



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by ChidoMuseum | 2017-04-15 19:34 | 博物館のとっておき | Comments(0)