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海の武士道

戊辰戦争後、西郷の指示で寛大な処分をうけた荘内は、西郷を慕い、酒井忠篤以下70名が薩摩にいき、勉強してきて、西郷没後南洲翁遺訓を出し、全国に頒布します。
その遺訓を英語、フランス語訳して世界の有志に贈呈する事業をしたのが東京、鹿児島出身者の薩摩士魂の会でその代表の森園さんとお会いしたら、「海の武士道」という感動的な本があるからと贈っていただきました。これは第2次世界大戦戦時中の話し、読んで感銘をうけました。
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この話しの主人公の日本海軍駆逐鑑「雷(いかづち)」工藤俊作鑑長は、山形県東置賜郡屋代村の出身です。ジャワのスラバヤ沖海戦中におこった出来事でした。
前日日本の輸送船が敵潜水艦に撃沈されたばかりで、航行中の雷の視界に浮遊物が飛び込んできました。戦闘準備したところ、海の上でイギリス海軍約400名が顔などは重油で汚染され衰弱を極めて浮遊して必死に救助を求めていました。
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工藤艦長の判断は「敵兵を救助せよ」、マストに救難活動中の国際信号旗が掲揚されました。艦上の水兵は驚き、まさに命がけの救助となることを覚悟しました。
船が難破してしまい、海上で危険にさらされている状態の衰弱した溺者(者)を救済するのは、潜水艦はじめ敵の攻撃をいつ受けるかわからないという非常に危険をともないました。そういうこともあって、救済しなくても違法ではなく、ほとんどの国はおこなっていないのが現状でした。日本海軍では各艦艦長の判断に任されていました。
艦長は、「総員敵溺者救助用意」と大きな決断をくだしました。「救助の旗が揚がったときは夢かと思った、彼らは敵である私たちを全力で助けた」とフォール郷は深く回想します。
次ぎに「漂流者全員救助」と命令をだします。「最低限の人間だけ残し、全員救助に迎え」と日本海軍史上極めて異例な命令。
 救助の停発信は燃料を消耗、戦闘になったとき燃料不足になる、また日本乗員より救助した兵が多く、反抗されたらという危険が伴います。雷乗員220名、救助者その数422名。フォール郷は「一人二人救うこと有っても全員とは」と評しています。
救われたイギリス兵は「Thank you so much, Thank you so much.........」と涙ながらに礼をいいます。
イギリス兵の士官を甲板に集め、工藤艦長は流ちょうな英語で
「you have fought bravely. now you are the guests of the Imperial Japanese Navy」
(諸官は勇敢に戦かわれた、諸官は日本海軍の名誉あるゲストである。)
 彼らイギリス兵は、翌日ボルネオ島の港バンジェルマシンで、日本の管轄下にあるオランダ病院船に捕虜として引き渡されました。
救助された一人であり後に外交官として活躍したフォール卿は、感謝の念を忘れず工藤艦長へ御礼がしたいと2003年日本を訪れました。
残念ながら工藤艦長の消息はつかめずフォールは帰国しました。
実は、その後、工藤艦長は別の船の艦長となり、雷は敵の攻撃で撃沈全員が死亡、そのショックからか工藤艦長は戦友と一切連絡をとらず、病院の手伝いをしながら余生を過ごし、1979年77歳の生涯を終えました。
工藤艦長自らのことは家族にも一切語らず、フォール卿が来日しなければ知られなかったことでした。
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 400名以上の敵の命を救った工藤艦長は当たり前のことをしただけというだろう、そういう人だったと戦友がのべております。
 その後多くの方の御協力で墓所がわかり、2008年に89歳のフォール卿再来日、お墓参りをしました。
一部のご紹介です。
詳しくは平成21年サム・フォール著「ありがとう武士道」、平成18年恵隆之介著「海の武士道」をご覧下さい。
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by ChidoMuseum | 2012-10-29 20:44 | あれこれメディア情報 | Comments(0)

荘内南洲会小野寺時雄理事長を偲んで

 10月23日午前2時療養中の荘内南洲会小野寺時雄理事長(88)(元酒田市市会議長)が逝去されました。
 毎月南洲翁(西郷隆盛)遺訓の講義やいろいろ講師を招き研修がおこなわれ、毎年2月には鹿児島、宮崎、熊本そして奄美大島や沖永良部などを南洲翁の足跡を訪ねてを企画されました。懐かしく思い起こします。
 10月27日午前8時30分酒田市で葬儀が行われました。いろいろ九州・東京など南洲翁の関係で交流を深めていることから、鹿児島、東京等からも遠路ご葬儀にご参列いただきました。在りし日を偲び、ご冥福をお祈りしてまいりました。
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by ChidoMuseum | 2012-10-29 19:30 | あれこれメディア情報 | Comments(0)

お葉書いただきました。

10月21日ご来館いただいた東京西ロータリークラブの清水重雄様からお励ましのお葉書をいただきました。ご来館いただきありがとうございました。
「拝啓 霜降の候、皆様には益々ご清栄のことと大慶に存じます。さて10月21日(日)午後4時30分頃貴博物館を訪問させていただきました。東京西南ロータリークラブ18名プラスJR東日本1名計19名でした。
よかった点1、西田川郡役所の建物の素晴らしさ(これだけではないが)
     2、鹿児島との友好の理由、その資料の数多いこと。
     3、考古学上の有益な資料(よく保存されていた)
国の指定重要文化財とはいえ、その保存管理運営など多大な努力されておられる事に対し、あらためて敬意を表します。ますますのご繁栄のことを祈ります。お礼状とさせていただきます。」
 いただきましたご丁重なお礼状を励みに今後とも一層努力して参りたいと思いますのでよろしくお願い申しあげます。ありがとうございました。
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by ChidoMuseum | 2012-10-25 14:44 | あれこれメディア情報 | Comments(0)

楽土苑収穫祭

 10月21日10時から楽土苑毛呂農場の収穫祭が行われました。そして収穫祭を祝って多彩な催しもおこなわれました。
 神事は出羽三山からほら貝を吹き鳴らしてとりおこなわれ、おかげで雨模様の天気も回復しました。
 その後、致道博物館犬塚幹士理事が「徂徠学と致道館教育の特色」と題して講演がおこなわれました。
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○「自学自習」憤せざれば啓せず、悱せざれば発せず○「天性・長所の伸長」天性得手不得手あり、その人の長ずるところを成就○「興味の喚起」学校は少年の遊び所、何事も寛大に取り扱い、興味の心ができ、面白く存じさせるよう、教育の指導方針があったことなど、現代の教育方針として通じるなど講演、
その後、藤間さんによる日本舞踊、毛呂家ミニコンサートがおこなわれ秋の味覚に舌鼓、楽しい収穫祭となりました。
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by ChidoMuseum | 2012-10-21 20:16 | あれこれメディア情報 | Comments(0)

和算の術

「幕末の頃、和算の地方普及は頂点に達していました。明治5年学制改革、数学教育は、洋算で行うことに決定され、和算は政府によって、はっきり過去のものとされました。維新後も地方では和算が学ばれてきましたが、時代の荒波には勝てず、終焉を迎えました。鎖国という状況でとくいな発達を遂げた和算。
 夫はいつ頃か、なぜ和算に心惹かれたのか、夫が趣味で書きためたものが、こういう形で刊行したこと、天上の夫も苦笑していることでしょう。
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現在は一般的ではない、なじみのうすい和算の本ですのでお届けするのに躊躇はありました。でも最も日本的な文化遺産たる和算の本をお手元におかれていつかご一読いただければ幸いに思います。夫は千葉県出身で高校教師になるため22才で庄内にきました。古里でない庄内に愛着をもちつつ、ある程度客観的にみつめることができたといえます。退職後は和算漬けでした。和算の宝庫、庄内に住み、和算を楽しんだ夫は豊かな人生を送ることができたと思います。」と遠藤マキ子さんが来館され亡き夫、故遠藤正さんが書きためたものを、「和算で人生を楽しんだ男」と題して刊行され、その書籍をご寄贈いただきました。ありがとうございました。
 遠藤正さんは、高校の数学教師退職後、和算「江戸時代の数学」を調べておられました。江戸時代一大ブームとなり、庄内にも多くの和算家を輩出、遠く江戸や関西にも何ケ月も修行にでかけました。茶華道の道とも似て、「関流」「最上(さいじょう)流」があって論争したり競争もあったようです。そのような歴史も書かれて興味つきないものがあります。庄内藩がおこなった千葉県印旛沼開削工事、月山鳥海山の測量、大館藤兵衛の天保堤開削など基礎調査など和算は大いに活用されました。
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 「従来、儒者算を知らず」といわれたが、藩校致道館は徂徠学によりますが、荻生徂徠は文学、音楽、兵学、芸術、法律、民族学のほか和算もおさめて驚くほど広範な面におよんでいました。
簡単な例題?
問題:今直有り積六十三歩、長平和十六寸長及平何程と問
計算:「術日和十六寸を置二つに割別置是を掛合内積六十三歩を引残平方に開き一寸を得る、別に置数を加え長を得、是を和十六寸の内より引平を得るなり」
答:長 九寸 平 七寸

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by ChidoMuseum | 2012-10-21 17:43 | あれこれメディア情報 | Comments(0)

吉田苞竹顕彰碑

 中央書道界で活躍し多くの優れた書家を育てた書家吉田苞竹の顕彰碑が東京の書壇院から寄贈移設され、10月16日午後2時、榎本鶴岡市長、書壇院理事長はじめ関係者多数出席のもとその除幕式が鶴岡公園でおこなわれました。これを機に書家吉田苞竹の顕彰とその志である書道がますますさかんになりますように。
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 吉田苞竹は明治23年12月鶴岡市に生まれ茂松と名付けられました。13歳で書家として有名な黒崎研堂の門に入り漢籍・書道を学ぶ。明治44年山形師範学校を卒業、教職につく。
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(写真:吉田苞竹)
 「私の苞竹という号は、私の郷里鶴岡で、儒者として又書家として有名だった黒崎研堂翁からつけていただいたのです。これは私の名が茂松であるのに対して大変面白いと思っています。それは詩経に、ー略ー如竹苞矣。如松茂矣。とあるのに拠ったのです。」(朝日新聞昭和14年11月21日付)
大正3年8月、書家比田井天来が鶴岡に来遊、苞竹は天来を訪ねました。
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(写真:黒崎研堂)
 「比田井先生は私の苦心して書いたものを一瞥しただけで、くるくると巻いてしまい、綺麗に達者には書いているがまだまだこれではいかぬ。ひとつ僕の書く汚い字を見たまえというようなわけで、筆を執ってなるほど一見汚い字を書いてみせてくださる。そして光明皇后の御書樂毅論を示されて之をよいと思うかどうかとか、歐陽詢や鄭道昭や孫過庭書譜や十七帖やいろいろな碑板法帖をだしてはいろいろなことを話されました。私は狭い道から突然曠野にでたようで何が何だかさっぱり見当がつきませんでした。けれども狭い道をば照らさなかった太陽が、一時にぱっとあらわれたような感じがしました。そしてある力強い何物かを得たことを否定することはできませんでした。(「碑帖大観」昭和2年5月号所載」
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(写真:日下部鳴鶴)
大正4年、研堂と天来の紹介により日下部鳴鶴に入門しましす。大正8年書道の研究に専心する志を立てて上京し、書道研究会を設立(後の書壇院)します。大正13年「碑帖大観」第1輯第1巻を刊行します。大正15年加藤高明首相の墓誌を揮毫、書道研究会主催全国書道展覧会を開催します。これが後の書壇院展の第1回にあたります。その後、制作、著作、講習、講演、碑法帖古硯の収集等々の活動を続け、また同志とともに戊辰書道会、泰東書道院、東方書道会の設立に参画するなど、まさに東奔西走の日々をおくります。昭和15年4月東京税務監督局で書道科講師として講演中たおれ、享年49歳。
苞竹が創設した書道研究会は昭和18年財団法人書壇院として設立され、平成24年公益財団法人書壇院となります。
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(写真:東京タワーを遠望して夜間の移設作業)
昭和63年頃から吉田苞竹旧居、同記念館、書壇院本部がある東京都港区麻布台地区などは都市再開発区域となり、港区虎ノ門に転居、苦慮した「苞竹吉田先生の碑」の移設、苞竹と菁菁夫人生誕の地、鶴岡に設置されることになりました。(「書壇院のあゆみ」より一部抜粋)
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by ChidoMuseum | 2012-10-16 20:11 | あれこれメディア情報 | Comments(1)

父祖の地によみがえる池田月潭の実像

10月2日から10月28日まで「池田月潭日本画の世界」展開催にあわせて
10月13日午後2時から「父祖の地によみがえる池田月潭の実像」と題して、
池田道正先生(山形大学名誉教授)の記念講演をおこないました。
池田月潭(1881~1923)は、東京神田今川小路生まれで
有職故実画の大家村田丹陵に師事し、
明治32年画人として独立、
日本美術協会主催展覧会など数々受賞、
大正時代の日本絵画評価表では高い評価を得ています。
関東大震災で負傷享年42才鶴岡市の本鏡寺に葬られました。
なぞの画人といわれ、各地で画会がおこなわれており、
従前不明だった経歴や作品所在など、縁者池田道正先生の調査によって
判ってまいりました。
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池田先生から月潭の画業と人生についてご講演いただき
没後90年節目の年に活躍された画業が父祖の地によみがえりました。
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by ChidoMuseum | 2012-10-13 17:05 | 博物館のとっておき | Comments(0)

忠篤ドイツからの手紙

戊辰の役後、明治3年(1870)酒井忠篤は藩士70余名と共に鹿児島に往き、西郷隆盛のもとで兵学を修業したが、この時の忠篤の真剣な態度に敬服した西郷はドイツに留学するをすすめ、また菅実秀も「回国はもちろん、異国にも渡り形勢を見ることが肝要」という勧めによってドイツ留学となった。(中略)
ドイツへ留学した酒井忠篤の明治7年6月9日附の書状。
 この書状を見ると、鶴岡1月28日に差し出した手紙が6月初にドイツに届いている。前述の松ヶ岡開墾につき朝廷より御下賜金のあったことの知らせを聞き、「若き者共いよいよ開拓盛んにて昨年中も六十数坪余の場所残らず開墾致し、今度は朝廷より一同へお金下され候旨、一同の骨折り感心致し候、全くは其方始めの骨折によるの次第と実に大悦に過ぎず候。」と述べ「此の上も何分にも宜しき様相頼み候」と万事を心置きなくまかせ自身は安心して勉学出来るという事が言外にうかがわれる。
 次に当時のドイツの近況を述べている。
「実に当地にても兵事は中々盛んなると雖も其外は皆々よきものには之無く、実に西洋人とても四目両口有るにあらず、馬鹿は矢張り馬鹿に候。」と批判しながらも
「この節に相成り候ては万事なかなか面白く相成り西洋人にも知識の者も出来、大楽しみに候」と知識人との交わりの出来たことを喜んでいる。
 又、この書状には、ドイツの二万の大軍による大演習を観戦し、その規模の大きいことに驚くと共に、日本も早くこのような国勢になることを願うとも述べている。
 四通の書状に必ず書いてあることは、松ヶ岡開墾に従事している「若き者」に対する激励と、一日も早く目的の兵学の修業を達成し、日本の為、万分の一にも相成り度いと日夜心掛け勉学に励んでいるということである。
 以上酒井忠篤 ドイツ便り からと題して、館報に掲載したことがありました。
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整理のため、もう1度読み直し、
「実に西洋人とても四目両口有るにあらず、馬鹿はやはり馬鹿に候」
 当時西洋文化に驚き、西洋人はすごいと思ったことであろうが、よく観察すると、すべてがそうでなく馬鹿はやはり馬鹿といっているところが興味深い。
「四目両口有るにあらず、ただ智多きのみ」
 これは敵将との会談に臨むときに噂に聞く曹操を一目見ようと多くの敵の兵隊に取り囲まれたときの曹操の言葉。自分は目が4つあるわけでも無く、口が2つあるわけでもない、自分はただ学んできた智が多いだけという曹操晩年の言葉。それにひっかけたのですね。
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by ChidoMuseum | 2012-10-06 00:37 | あれこれメディア情報 | Comments(0)

荘照居成祭

出羽国一之宮鳥海山大物忌神社蕨岡口の宮の境内に莊照居成神社がります。
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10月2日午前10時からその莊照居成祭が催行されました。三方お国替えの時に英断をくだした江戸町南町奉行矢部駿河守を祀り、荘内を照らすという意で命名されました。神事そして遠路かけつけていただいた矢部駿河守末裔の今関達巳さんのご挨拶がありました。そして琵琶語り「天保義民の旗風」(山崎誠助作)を池田青水氏が奏し当時を偲びました。
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矢部はその後水野の忌諱にふれ桑名に預けられ、断食をして非業の死を遂げることになったことについて、桑名市稗田自治会連合会がつくったしおりが紹介されました。


矢部駿河守定謙様
桑名藩お預かりの真相             桑名市稗田自治会連合会  
「出羽国一之宮鳥海山大物忌神社蕨岡口の宮境内に「莊照居成神社」がある。
弘化三年(1840)にに建立された小さな社である。祭神は、江戸南町奉行であった矢部駿河守定謙(さだのり)である。ここに至った歴史的背景を述べる。
天保11年(1840)に別図の如く、「三方領地替え」が突如として下り、出羽国荘内領民は驚きと混迷を極めた。
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この所替えのご沙汰に対し、領民は荘内あげて、大阻止運動を展開した。地元では大祈願を催し、また江戸へ出て幕閣への駕籠訴を実行した。
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この行動が奇しくも矢部駿河守の取り調べるところとなり、当時江戸で活躍していた佐藤藤佐(さとうとうすけ・出羽国 遊佐升川出身。その長男 佐藤泰然は医師となり佐倉に移り順天堂を創設、医学生の教育に力を注ぎ、外科治療で注目され私立病院の魁けとなった)が調べられることになる。
 調べに対して藤佐は、この国替えの非と、「百姓たりと雖も、二君に仕えず」という荘内領民の心意気を滔々と述べたのである。矢部奉行は藤佐の論に胸を打たれ、幕府の評定所の席上、この国替えの撤回に力を注がれ、遂に転封は撤回された。荘内藩は矢部駿河守によって救われたのである。
 しかし、この為、矢部駿河守は、水野忠邦(老中)の忌諱にふれ、腹心の鳥居耀蔵らの陰謀にて、在任八ヶ月で江戸南町奉行を罷免となり、罪人として桑名藩へ永のお預かり、子は改易という厳しい処分を受けた。
 矢部駿河守は翌年天保13年(1842)5月12日に桑名藩に到着、暫くして断食に入られ、おん年52歳で7月24日亡くなられた。検死その他で遅れ、8月18日、豪雨の夜半に、ここに埋葬されたのである。

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 法名 隔雲院弧月日高大居士
 現在の墓標は、昭和39年(1964)、作家松本清張先生の肝入りで、平岡潤先生たち「北勢史談会」が建立されたものである。
 この度、山形県遊佐町の鳥海山大物忌神社の伊藤宮司のご来桑によって、矢部駿河守定謙の件が詳しく判ったので、桑名市と相はかり、命日である今日、ここ薬王寺にその由来を記してこの札を建て、御霊の安からんことを祈ります。
平成16年(2004)7月24日

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by ChidoMuseum | 2012-10-02 21:47 | あれこれメディア情報 | Comments(0)

平成24年市制施行記念式典

10月1日平成24年度鶴岡市市制施行記念式典がおこなわれました。
鶴岡市民憲章の唱和
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そして榎本鶴岡市長式辞に市会議長、来賓各位の祝辞がありました。
市表彰条例による表彰は、志田啓さん(堅芹沢)。鶴岡市水難救助員の委嘱を受け、幾多の救助に活躍、鶴岡市救難本部初代本部長に就任、救難活動の推進、訓練を始めとする組織運営に尽力、水難救助活動に情熱を注がれたとして表彰されました。
本年で新市7周年を迎えて、市制施行祝賀会がおこなわれました。
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毎年恒例となっている民俗芸能披露は
今年度は、越中山神楽が上演されました。
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by ChidoMuseum | 2012-10-02 21:00 | あれこれメディア情報 | Comments(0)