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吉光の傳来

大いに話題になった重要文化財 短刀 吉光の伝来について下記「重要文化財短刀吉光の傳来」(抄)と題した酒井忠治の一文を紹介します。

反り無し 目釘穴3
銘 吉光 表粟田口吉光   短刀   財団法人致道博物館蔵
長さ8寸2分5厘  裏護摩箸 名物信濃藤四郎
昭和25年8月重要文化財に指定
拵 1.柄   塗鮫
  2.縁頭  角
  3.目貫  赤銅茄子(宗乗作)
  4.鞘   黒


昭和26年に「吉光」の刀の附札があるものを発見した。それは小さい紙片で次の様に記してある。
信濃藤四郎 代金参百枚
永井信濃守指上ル 松平肥前殿拝領
其の後酒井宮内様御めし被成候
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これによって見ると、信濃守が何かの祝いのおりに、2代将軍秀忠にこの刀を献上し、後
松平肥前守が将軍より拝領したものであろう。松平肥前は鍋島勝茂の二男(後に松平)忠直のことである。当時の例として叙爵の時、刀を賜ったらしい。
「忠直、父に先立って卒しければ、嫡孫光茂 家を継ぎ、慶安元年元服し、御家号、御諱字を賜り、従四位下に叙し、丹後守に任ず。御刀を賜う。(中略)其の子信濃守綱茂、寛文七年元服して御諱字を賜い、従四位下に叙す。御刀を賜うこと例の如し」(藩翰譜)
とあるから、忠直が叙爵の時拝領したものであろう。そして其の後酒井宮内大輔忠勝(三代)に伝わったものと考えられるのである。

忠勝に伝わったということの貴重な記録として、やはり昨年次のごとき文書を見いだすことができた。
信濃藤四郎吉光之御脇差代判金
四百参拾枚者小判参千貳百拾五両
御請取相済申候 則御脇指御主方へ急度進上可仕候 爲後日一札如
此に御座候以上
寛永拾参子          本阿彌三郎兵衛
九月廿七日
                     忠利  印  花押
               同   十郎兵衛
                         印  花押
酒井宮内様御内
  吉田甚右衛門殿
  犬塚又左衛門殿
        参
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これによって忠勝が本阿彌三郎兵衛を通じて松平肥前守より譲り受けたことはほぼ確実である。次に忠勝が譲り受けて後 寛永十九年に、本阿彌家では又々この刀を酒井家より借り受けいろいろと詮議している。即ち
吉光御脇指吟味仕相済申候節本阿彌三郎兵衛申聞候口上之覚
吉光御脇指名物之御道具に御座候故同名共と度々一覧仕相談之上
五百枚に仕候 大事之御道具に付再覧に手間を取延引仕候
此旨可然様に御序を以申上候様にと三郎兵衛申上候以上

 十二月十四日

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これは前掲の文書と共に、この刀の由来を知る上に興味あるものと思う。
以上数項にわたって考証を述べてきたが、要するに本阿彌三郎兵衛の書状が今日までのところ、一番確実なものであろう。それで三代忠勝の時より酒井家に伝わったものという結論をつけたい。しかし、後日にそれ以上の資料が発見されるかもしれない。それを期待してひとまず擱筆する次第である。

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# by ChidoMuseum | 2017-02-19 19:11 | 博物館のとっておき | Comments(0)

研修 岩出山へ 感覚ミュージアム  中鉢美術館  有備館へ

2月15日朝8時30分出発で、宮城県大崎市岩出山へ。雪国の雪の中を走って県境の山をこえると雪はないこの違い。1591年伊達政宗が豊臣秀吉の奥羽仕置きにより岩出山に本拠を移し、12年間治府をおいたが、1602年に政宗が仙台城に移ってからは政宗の4男・宗泰が岩出山城主となり、明治維新まで宗泰を初代とする岩出山伊達氏が居住する要害となった。
岩出山に到着したらまず腹ごしらえ、割烹日冨見屋、おちついた和室で、この価格で豪華な?和食を堪能。
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始めに、感覚ミュージアムへ、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚といった5感をテーマとするミュージアム、さまざまな体験を通して楽しみながらイマジネーションを高めることが出来る、不思議な体験して楽しめるミュージアム、これからは体感でき楽しめるものが必要と感じました。
次に中鉢美術館、刀剣女子でにぎわっている刀剣の美術館です。日本刀の源流が東北にもあった、鉄文化と豊富な資源、奥州平泉の平和を重んじた浄土思想のうえに日本の精神文化の象徴日本刀が完成されたと、中鉢館長さんから熱くご解説いただきました。ありがとうございました。
最後に国指定史跡・名勝の旧有備館および庭園、1715年茶道頭清水道竿により庭園が完成、1720年頃から講義などが行われ、1850年郷学有備館開設された。昭和8年国の史跡名勝に指定された。平成23年東日本大震災で被災、5年かけて原材料70%を用い修復工事して昨年平成28年竣工し、公開をはじめました。貴重な歴史的館贓物が修復されたことは大変うれしいことです。有意義な研修でした。
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# by ChidoMuseum | 2017-02-16 18:32 | あれこれメディア情報 | Comments(0)

先賢を偲ぶ会:西郷・菅を偲ぶ

 2月12日午後2時から先賢を偲ぶ会を御隠殿において開催しました。例年、菅實秀の命日2月17日に近い日に開催しています。
今回は山田陽介講師による「西郷南洲先生の漢詩について講演いただきました。
詩は志なり、南洲先生の漢詩には先生の思いが率直にでています。 
また、漢詩 感懐「幾たびか辛酸を歴て 志始めて堅し 丈夫玉砕 甎全を愧ず 我が家の遺事 人知るや否や  児孫のために美田を買わず」など15首の漢詩を背景を解説いただきながら味わいました。
 また庄内でつくられた南洲翁異訓は、庄内藩士70名が鹿児島に行き、教えをこうたときを中心に、南洲先生の教え思いをまとめたものです。
その遺訓には「南洲先生は、リーダーたる者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して、みんなの標準となり・・・・ならでは政令は行われ難し。それなのに、草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服をかざり、美妾を抱え、蓄財を謀る、そんなことでは維新の功業はとげられない。今となっては、戊辰の義戦も 偏に「わたくし」を営みたる姿になっていることは、天下に対し戦死者にたいして面目がない、といわれて、しきりに涙をもよおされる。」「南洲翁遺訓」より。
 明治から150年、明治の人気ある人物は西郷どん、ということで、林真理子さん原作の小説「西郷どん」が来年のNHK大河ドラマ「西郷どん」となります。庄内も関わりが深いので庄内関係がでるのでないかと期待されています。


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# by ChidoMuseum | 2017-02-12 18:54 | あれこれメディア情報 | Comments(0)

歴史の扉~街道と海道~のギャラリートーク

歴史の扉 ~街道と海道~(1月27日(金)〜3月1日(水))
江戸と庄内をつなぐ〈街道〉、大坂と庄内をつなぐ〈海道〉、
江戸時代に発展した陸と海の道を古文書資料から読み解く楽しみをあじわっていただく
担当した菅原学芸員のギャラリートークを2月4日午後2時から開催しました。
50数名の大勢の皆様よりご聴講いただきました。
ありがとうございました。

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# by ChidoMuseum | 2017-02-04 17:27 | 博物館のとっておき | Comments(0)

歴史の扉 街道&海道

 1月27日から3月1日まで「歴史の扉 街道&海道」 江戸時代、諸大名は参勤交代のため江戸と領国を行き来しました。華美な出で立ちで大勢の武士が行進する様は、武家社会の象徴でもあり、幕藩体制の中で道の整備がすすめられます。そしてその道はやがて庶民の道ともなりました。
 商人は上方や江戸を往来物資を運び、文人墨客が旅をしたほか、伊勢参詣や出羽三山参りなどの信仰の道ともなり、要所におかれた宿場町は人で賑わいました。
 荘内は西に日本海、東に出羽三山、南に朝日山地、北に鳥海山と山海で囲まれた地域です。そのため60里越街道や浜街道などの陸路、海運路としての西回り航路、置賜・村山・最上地域を結ぶ河川水路・最上川、これらがとても重要な交通路となりました。特に、西回り航路の起点となった酒田湊は、近隣の特産物を集積し、上方への海運の拠点となり、全国有数の良港として繁栄しました。本展では、荘内と江戸、京都、大阪が陸路・海路によって結ばれ、全国を人々が往来した江戸時代の様子を古文書や絵画史料、民俗資料からみていきます。     
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出羽街道図(江戸時代中期)
美濃判和紙を18枚つなぎ合わせてつくられた出羽国街道図(但し米沢置賜は描かれていない)。象潟の潟湖が描かれている所から制作は文化元年(1804)以前とみられる。西の日本海側から東に向かって鳥瞰的に、しかも山々は高低をつけずに同調子で描き、主要な城郭窪田(久保田)・本城・鶴岡・白岩・新庄・山形・上山は、四角に内接円で示され、街道や脇街道はところどころに集落名を入れながら赤線で描いている。街道は他領とのつながりを意識して注記され、川や潟は北から南の海岸線に沿って米代川、八郎潟、雄物川、子吉川、象潟、月光川、日光川、最上川と支流の赤川、三瀬川、五十川、小国川(もしくは温海川)、鼠ヶ関川が誇張して示されている。


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荘内藩参勤交代道程図(パネル) 鶴岡から江戸までの道程図

藩主は参勤交代の制度によって毎年領国と江戸を往復しなければならなかった。上り下りには10~15日を要した。参勤のルートは鶴岡城を出発し、清川から船で清水(現山形県最上郡大蔵村清水)に上陸、その後羽州街道、七ケ宿街道を通って桑折から奥州街道で江戸まで上った。約120里(480k)の里程を進んだ。参勤のルート変更は幕府の許可を得る必要があり、基本的に同じルートをとったが、正徳7年(1713)~宝暦4年(1752)の間は尾花沢ではなく、大石田を通る時期もあった。
鶴ヶ岡城~清川 清川街道
清川~舟形 舟形街道(最上川)
舟形~楢下 羽州街道
楢下~桑折 七ヶ宿街道(羽州街道)
桑折~江戸神田上屋敷 奥州街道


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最上川谷地押切渡しより柏沢迄絵図(江戸時代)碁点・三ヶ瀬・隼の最上川3難所場面 延享3年(1746)4月 当館蔵  山形県指定文化財

新庄藩から荘内藩に贈られた最上川谷地押切渡より荘内藩領柏沢までの最上川川筋を描いた絵図。乾坤の2巻仕立てで、乾には最上川谷地押切渡から合海まで、坤には本合海から荘内藩領柏沢までの川筋が描かれ、延享3年(1746)4月新庄藩士岩間作右衛門によって作成された。日本3大急流といわれる最上川のなかでも特に険しい難所とされる碁点、隼、三ヶ瀬は川のうねりと岩礁が表現され、白糸の滝などの滝や分流する川筋なども随所に描かれている。最上川の川筋が上質な絵の具で精巧に描かれており、当時の状況を知る上で貴重な資料である。


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酒田湊・山居付近(江戸時代) 酒田御米置場絵図 享和元年 当館蔵
幕府直轄領および預地からの年貢米(御城米)の廻船ルートとして西廻り航路が開かれると、米の集積地となる各湊に米置場を設置した。酒田の御米置場がそれにあたり、通称「瑞賢蔵」とも呼ばれる。酒田の御米置場は、明和5年(1768)に一度移築されているが、その後の享和元年(1801)、最上川の川欠により、7,80間移動させている。また本図には4つの門が描かれているが、移築後には5つの門が備えられるようになる。




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将軍の名代として上京、691名の大名行列
泥洹院様御上京図 江戸時代 当館蔵

泥洹院様とは荘内酒井家6代酒井忠真のこと、この上京図は享保10年(1725)京都御使(将軍名代)として忠真が上京したときの大名行列を描いたもの。人物691名、馬34匹、駕籠・長持21個、土地の者4名が描かれている。上京に際しても「御判物」の入った長持や「太刀箱」などを持ち運んだ。藩主の奥のすぐ後ろには、「亀通しの槍」(酒井家初代忠次愛用の槍)が控えている様子なども見える。下パネルはその道程図である。

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# by ChidoMuseum | 2017-01-28 10:34 | 展覧会 | Comments(0)