前にご案内した方から市役所前にある朝暘学校碑をみて撰文も書も当時有名な第一人者、これはすごいといわれたことを覚えております。

確かによく見ると、額字は有栖川宮ー熾仁親王、(有栖川宮第九代親王、幕末に攘夷論を主張し、王政復古とともに総裁職に就任した。戊辰戦争で東征大総督のち、参謀総長などを歴任。)。撰文は重野安繹(幕末・明治期の歴史学者。薩摩の人。号、成斎。藩校造士館、江戸昌平黌に学んだ。文部省修史局員・東大教授・元老院議官・貴族院議員などを歴任。東大に国史科を設置、実証主義に基づく史学の基礎を築いた。著「稿本国史眼」「国史綜覧藁」など)。そして書は長三洲(幕末・明治の漢学者・書家。豊後の人。名は傍。字は世章。奇兵隊に参加。維新後は文部大丞・文部省学務局長・東宮侍書などを歴任。漢詩・南画にもすぐれた。著「三洲遺稿」など)。

東北一といわれた朝暘学校を創立し、その記念碑は明治の日本を代表する人物ばかり、最後に降伏した荘内にいかに新政府の威厳をしめし教化をはかろうとしたか知ることができます。
その先に鶴園橋があります。そこに標柱があり、故酒井忠治当館理事はその書は長三洲ときいているといいっていました。

その書体はすばらしいもので、三種の書体でかかれ、そして明治13年1月と刻まれています。
朝暘学校碑の書は長三洲、そこに刻まれているのは明治12年9月、若干の時期の遅れは、竣工してから橋にも記念にと追加で頼んだものと考えられます。なかなか貴重なものとものと思います。

