2017年 01月 28日
歴史の扉 街道&海道
1月27日から3月1日まで「歴史の扉 街道&海道」 江戸時代、諸大名は参勤交代のため江戸と領国を行き来しました。華美な出で立ちで大勢の武士が行進する様は、武家社会の象徴でもあり、幕藩体制の中で道の整備がすすめられます。そしてその道はやがて庶民の道ともなりました。
商人は上方や江戸を往来物資を運び、文人墨客が旅をしたほか、伊勢参詣や出羽三山参りなどの信仰の道ともなり、要所におかれた宿場町は人で賑わいました。
荘内は西に日本海、東に出羽三山、南に朝日山地、北に鳥海山と山海で囲まれた地域です。そのため60里越街道や浜街道などの陸路、海運路としての西回り航路、置賜・村山・最上地域を結ぶ河川水路・最上川、これらがとても重要な交通路となりました。特に、西回り航路の起点となった酒田湊は、近隣の特産物を集積し、上方への海運の拠点となり、全国有数の良港として繁栄しました。本展では、荘内と江戸、京都、大阪が陸路・海路によって結ばれ、全国を人々が往来した江戸時代の様子を古文書や絵画史料、民俗資料からみていきます。
出羽街道図(江戸時代中期)
美濃判和紙を18枚つなぎ合わせてつくられた出羽国街道図(但し米沢置賜は描かれていない)。象潟の潟湖が描かれている所から制作は文化元年(1804)以前とみられる。西の日本海側から東に向かって鳥瞰的に、しかも山々は高低をつけずに同調子で描き、主要な城郭窪田(久保田)・本城・鶴岡・白岩・新庄・山形・上山は、四角に内接円で示され、街道や脇街道はところどころに集落名を入れながら赤線で描いている。街道は他領とのつながりを意識して注記され、川や潟は北から南の海岸線に沿って米代川、八郎潟、雄物川、子吉川、象潟、月光川、日光川、最上川と支流の赤川、三瀬川、五十川、小国川(もしくは温海川)、鼠ヶ関川が誇張して示されている。
荘内藩参勤交代道程図(パネル) 鶴岡から江戸までの道程図
藩主は参勤交代の制度によって毎年領国と江戸を往復しなければならなかった。上り下りには10~15日を要した。参勤のルートは鶴岡城を出発し、清川から船で清水(現山形県最上郡大蔵村清水)に上陸、その後羽州街道、七ケ宿街道を通って桑折から奥州街道で江戸まで上った。約120里(480k)の里程を進んだ。参勤のルート変更は幕府の許可を得る必要があり、基本的に同じルートをとったが、正徳7年(1713)~宝暦4年(1752)の間は尾花沢ではなく、大石田を通る時期もあった。
鶴ヶ岡城~清川 清川街道
清川~舟形 舟形街道(最上川)
舟形~楢下 羽州街道
楢下~桑折 七ヶ宿街道(羽州街道)
桑折~江戸神田上屋敷 奥州街道
最上川谷地押切渡しより柏沢迄絵図(江戸時代)碁点・三ヶ瀬・隼の最上川3難所場面 延享3年(1746)4月 当館蔵 山形県指定文化財
新庄藩から荘内藩に贈られた最上川谷地押切渡より荘内藩領柏沢までの最上川川筋を描いた絵図。乾坤の2巻仕立てで、乾には最上川谷地押切渡から合海まで、坤には本合海から荘内藩領柏沢までの川筋が描かれ、延享3年(1746)4月新庄藩士岩間作右衛門によって作成された。日本3大急流といわれる最上川のなかでも特に険しい難所とされる碁点、隼、三ヶ瀬は川のうねりと岩礁が表現され、白糸の滝などの滝や分流する川筋なども随所に描かれている。最上川の川筋が上質な絵の具で精巧に描かれており、当時の状況を知る上で貴重な資料である。
酒田湊・山居付近(江戸時代) 酒田御米置場絵図 享和元年 当館蔵
幕府直轄領および預地からの年貢米(御城米)の廻船ルートとして西廻り航路が開かれると、米の集積地となる各湊に米置場を設置した。酒田の御米置場がそれにあたり、通称「瑞賢蔵」とも呼ばれる。酒田の御米置場は、明和5年(1768)に一度移築されているが、その後の享和元年(1801)、最上川の川欠により、7,80間移動させている。また本図には4つの門が描かれているが、移築後には5つの門が備えられるようになる。
将軍の名代として上京、691名の大名行列
泥洹院様御上京図 江戸時代 当館蔵
泥洹院様とは荘内酒井家6代酒井忠真のこと、この上京図は享保10年(1725)京都御使(将軍名代)として忠真が上京したときの大名行列を描いたもの。人物691名、馬34匹、駕籠・長持21個、土地の者4名が描かれている。上京に際しても「御判物」の入った長持や「太刀箱」などを持ち運んだ。藩主の奥のすぐ後ろには、「亀通しの槍」(酒井家初代忠次愛用の槍)が控えている様子なども見える。下パネルはその道程図である。