刀剣鑑賞会(日本美術刀剣保存協会庄内支部主催)
10月24日(日) 10:00~12:00頃
講 師 栁川 清次 氏(日本美術刀剣保存協会評議員 無鑑査 研師)
人 数 一般参加先着15名
※刀剣会会員以外の方は、刀剣に触れません。ご了承をお願いいたします
参加料 無料 ※入館料のみ
はじめての刀剣講座
❶10月31日(日) ❷11月21日(日) ※各回14:00~15:30
講 師 矢口秀春氏(日本美術刀剣保存協会 庄内支部理事)
申 込 先着15名
参加料 500円(資料代)
刀匠・上林恒平氏の制作実演
❶11月7日(日) ❷11月14日(日) ❸11月28日(日)
※各回10:30~15:00(昼休憩有)
内 容 銘切りなどを行います
実演者 上林恒平氏(山形県指定無形文化財保持者)
会 期:令和3年10月22日(金)~11月28日(日) 【38日間/会期中無休】
開館時間:午前9時~午後5時(入館受付は閉館30分前まで)
料 金:大人800円/学生400円/小中生300円(20名以上で団体割引有り)
※この料金で博物館内にある常設展示施設・庭園などすべてを見学できます
※会期中、「東北文化の日」により、小中生は会期中の土日祝日無料
会 場:公益財団法人致道博物館 美術展覧会場
主 催:公益財団法人致道博物館 (山形県鶴岡市家中新町10-18 ℡.0235-22-1199)
共 催:山形県・公益財団法人山形県生涯学習文化財団・鶴岡市教育委員会
協 力:日本美術刀剣保存協会庄内支部
古月山派 月山刀工は平安時代末期の奥州舞草(もぐさ)刀工・鬼王丸を祖とするといわれる。在銘最古の月山作は鎌倉時代末期と推定され年紀のあるものでは貞治2年(1365)の軍勝作の平造太刀が最も古い。室町時代に入ると在銘刀も多く数十人の刀工がいたようである。本拠地は寒河江・谷地地域でこのころには他国の刀工と交流をもっていた。月山刀工の特徴は「綾杉肌」という独特の地鉄(じがね)をあらわしたことである。この肌の系統は、山城・大和・越後そして遠く薩摩などの刀工に見られ興味深い。また備前長船や駿州島田の刀工との交流も知られる。この月山派は大江・白鳥・最上等の領主、慈恩寺、立石寺の衆徒、羽黒・月山関係の修験者等がその支援者とされる。
水心子正秀(1750~1825) 出羽国赤湯に生まれ、武州下原鍛冶吉英に師事し、宅英、英国と銘した。安永3年(1774)山形藩秋元家に召し抱えられ、川部儀八郎正秀と改名、水心子と号した。初期には大乱刃ついで津田助広写しの濤瀾(とうらん)刃など大阪新刀風であったが、のち国学の復興に伴う復古思想の勃興に影響され「日本刀はすべからく鎌倉・南北朝の古に復すべし」とする復古新刀論を唱え、「刀剣武用論」「刀剣弁疑」などを著した。賛同者も多く、やがて江戸にでてこれを実地に移し、文政元年(1818)名も天秀(あまひで)と改めた。のちに水心子正秀・弟子の大慶直胤(たいけいなおたね)・幕末の源清麿(みなもとのきよまろ)の3名が「江戸3作」と称された。
大慶直胤(1779~1857) 山形に生まれる。はじめ荘治(庄司)箕兵衛と称した。もとは鎌鍛冶であったが、24歳の時に鍛刀を志した。江戸で水心子正秀の門に入り、大慶直胤と号す。技量は師よりすぐれたとも言われ、各地の伝統的鍛法をこなし、江戸3作と冠される新々刀を代表する刀工の一人となった。文化9年(1812)頃に師とともに山形藩秋元家に召し抱えられた。文政4年(1821)に「筑前大掾」を受領し、嘉永元年(1848)には「美濃介」に転じている。門下には次郎太郎直勝をはじめ名工が多い。
藤原清人(1827~1901) 庄内温海温泉にて、仙台藩士長野清右衛門の8男として生まれる。幼名小市一郎。幼い頃母の兄で荘内藩御用鍛冶を務める齋藤小四郎の養子になる。斉藤家は刀鍛冶として代々小四郎と称し、清人は12代目にあたる。家伝によれば京都三条で禁裏鍛冶を務めたという。嘉永5年(1852)に江戸に出て源清麿の門に入る。嘉永7年に師清麿が自害すると残っていた刀債を引き受け、清麿の内妻の生活扶助をしたという。安政3年(1856)に独立し、神田小川町で開業。安政5年荘内藩に抱えられる。慶應3年(1867)京都に上り朝廷に献刀して豊前守を受領。明治3年(1870)再度上京し鍛刀したが、明治政府が庶民の佩刀を禁じたため郷里に帰り宿屋の主人として晩年を過ごした。
池田一秀・初代(1773~1841) 飽海郡観音寺村(現酒田市観音寺)の鍛冶池田伝兵衛(富一)の次男として生まれ、文化2年(1805)山形藩秋元家の御用鍛冶であった水心子正秀が庄内来遊のおりに入門した。同年荘内藩に召し出されて鶴岡に居住、のちに水心子の高弟・水心子照秀を招いて近郊井岡(いのおか)で修行した。文化5年(1808)剃髪して龍軒入道と号す。文政2年(1819)米沢藩の刀工・加藤助四郎に師事して技を磨き、天保11年(1840)老年のため家業を2代目一秀(清藏、一義、嘉永元年殁)に譲って隠居した。翌年逝去、鶴岡禅竜寺に葬られる。3代目一秀(清内、一定)は江戸に上って鉄砲鍛冶を兼ねた。代々一秀と名乗って鶴岡八日町に住み、明治時代以降は鍛冶屋を業(なりわい)とした。
加藤綱俊(1798~1863) 本名加藤八郎、号は長運斎、加藤国秀の3男として米沢に生まれる。山形藩お抱えの刀工で濤瀾(とうらん)刃の名手・加藤綱秀の実の弟である。水心子正秀に入門。安政3年(1856)には「長運齋」の号を息子の是俊、2代目綱俊に譲り自らは銘を「長寿齋」と改める。文政6年(1823)頃より江戸麻布の上杉家中家敷で鍛刀。当時「備前伝」の第一人者と称えられた。
中川徳吉(のりよし・1908~1982)飽海郡遊佐町山崎に高橋市右衛門の長男として生まれる。のちに西荒瀬村に養子に入り中川姓となる。昭和3年(1928)横須賀海兵団に入団、工作兵として広島県呉の日本刀鍛錬伝習所に入所、刀匠平賀護国に鍛刀の技を学ぶ。太平洋戦争のさなか、軍刀の作刀に励み、その数200振。戦後郷里で本間順治、永山光幹、犬塚徳太郎の指導を受け、昭和44年(1969)鍛刀を再開。翌年、第6回新作名刀展入選、その後連続で入選を果たしいる。
上林恒平(1949~)本名・勇二、藤島町(現鶴岡市)に生まれる。昭和42年(1967)に県立鶴岡工業高等学校を卒業後、重要無形文化座保持者(人間国宝)宮入行平に師事。昭和48年(1973)に文化庁の作刀認証をうけ、以後文化庁長官賞、高松宮賞、勲山賞など数多くの特別賞を受賞。昭和60年(1985)36歳で無鑑査刀匠に認定されている。作風としては五カ伝のうち、相州伝を得意とし、芸術性の高い刀身彫刻の作品も多い。昭和61年(一九八六)山形市長谷堂に鍛刀場を開設。加藤慎平、高橋恒厳ら次代の優れた刀工を育てている。平成20年(2008)に山形県無形文化財保持者に認定された。
S | M | T | W | T | F | S |
1 | 2 | 3 | ||||
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
ファン申請 |
||